メモ的な記録用
 
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

【2010.03.06 Saturday 】 author : スポンサードリンク
| - | - | - |
三月
  なんと気がついたら2月が終わっていました。ここを忘れていたわけではなく、あまりに凄まじい速度の動きで2月を2月と認識する間もなく3月にいたのです。というより、時間の感覚が曖昧になっています。昨年末からiPhoneAppの販売を始め、そこからプロモーションをどうするのかを考えながらホームページ作ったり、英語圏でのプロモーションに四苦八苦しながら次のアプリをリリースして、審査に異常に時間がかかってやきもきしつつ、iPadの発表でiPadAppの開発競争に身を投じた結果です。iPadAppのことを考えながらiPhoneAppのアップデートもして機能を充実させていきながら、さてこのiPhoneAppたちをiPadでそのまま使えるようにするには、どのくらい手を入れるべきなのかそれとも入れないべきなのかも考えて、そうこうしているうちに2月が過ぎ去っていたのです。

  処理すべき事柄が多すぎて、半分パニックなのでしょう。本来であれば、人を3人はいれて教育しながら次々と先に進んでいきたいところではありますが、そんな固定費が出るわけもなく、黙々と一人作業をしていると時間の感覚はずれていきます。また、悪いことに米アップル時間でappStoreのリリースタイミングなどが変わりますので、微妙な時差感がよけいに感覚を狂わせます。これはそのうち慣れるでしょう。

  経済的な部分もですが、なんだかんだとギリギリの綱渡りが続いています。見通しが立ったかなと思ったら、その見通しが別の方向から断ち切られて、今度こそヤバいぞと思っていたらこれまたとんでもない方向に微かな道が続いていそうな気配を感じているところです。シナリオあるんじゃないの?これ。というくらいギリギリな場所をギリギリでこじ開けている感があるので、シナリオライターを見つけたら説教してやろうと思っています。この顛末は、またいつか落ち着いた頃に書ければと思いますが、凄く嘘くさいものになりそうです。

  さてそれはそれとして、昨年末からちょこちょこ金融機関に融資のお願いに行ったりして、なんとか資金集めをと、できる範囲で奔走しているのですが、基本的に話にならないというのが身に染みる結果になっただけでした。もうこれは仕方のないことであって、世代交代を待つ以外にないのかもしれないんだなという諦観に至ってしまいそうなので、やや危惧しています。

  日本は技術の国です。少し前でしたら海外から見たら日本の代表的な輸出製品はトヨタ、車でしょう。今は漫画、アニメではないでしょうか。これも技術です。違いは車は物理的に目に見えます。大きな工場、大きな機械、多くの人たち、だからわかりやすかった。昨今の漫画やアニメはデジタル化がかなり進んでますので、物理的に見えない部分はとてもたくさんあって結果としてできていた物しか手に取ることができない場合もありますし、物によってはiPhoneやパソコンの中だけで完結するものもあります。漫画、アニメはソフトウエア産業です。これはアプリケーションも同様です。プログラマーか絵師かという具合です。いずれもデザインが入って、プログラムであればユーザインタフェースが整えられて使いやすくされますし、アニメや漫画もアートディレクションが入り整えられます。これらの行程は工業のように分業化は非常に難しく、する方が非効率であり、よって往々にして並列で行われるため、大きな機械や大きな工場、多くの人たちは不要です。こうしたソフトウエア産業では、一つのプロジェクトに参加する人数が増えれば増えるほど、その納期は遅れる傾向にあります。だから少人数で、結果的に先鋭なわけなのですが、実はジレンマがあります。最初に金融機関などに見せられる物が物理的なものとして無いために、少人数でやらざるを得なく、それが故に少数先鋭になってしまった、ということもあります。本来であれば、そうした少数先鋭の中に若い人々を入れて、刺激と知識と知恵を勝手に盗ませて覚えさせ、そこからさらに次の少数先鋭チームを作って、という循環が欲しいのですが、それには固定費がかかるためやることはあまりありません。

  客観的に目に見える物があれば、何であれ話は早くて理解も早いのですが、ことソフトウエア産業に至っては理解を拒絶する反応が極端に目立ちます。デザイン関係の場合は、大手取引先の名前でも出せば本当にそれだけで済むのですが、ソフトウエアはまるで駄目です。ところが窓口にしてもなんにしても、どこへ行ってもパソコンはあって、みんなそれを使っているのです。ハードウエアに価値は見いだしているのに、ソフトウエアにはその価値を見ていない。しかしハードはソフトが無ければ何もなりません。

  先だって金融機関においてもいずれもまずiPhoneを知らない、触ったことがない、いやそっち方面は全く疎いので…という有様です。経済的なインパクトにおいて、iPhoneに限らずスマートフォン市場の拡大はKindleも含めると産業革命に匹敵するほどのものをもたらしつつある時期です。これからその黎明期に入って行こうとしていると感じています。30年後の2040年に、2010年を歴史として振り返ったとき2010年からの変化というのは地続きで明確な物になっていると確信しています。そういう時代です。

  さて、そうした現況の中、私はデザイナーとして15年ほど広告業界の末席に居たり居なかったりと中途半端な立ち位置で、様々な経験をさせてもらってきました。使えるリソースが自分の中にけっこうある、ならばなおのこと、やらない後悔よりやった後悔の方が気分がいい。そういう自己満足的な理屈で猪突猛進中です。もちろん金融機関にはそんな理屈は通用しませんし、結局現状では何もわからないし、身近な物ではない上に、触ることができないので商売になるとは思えないといわれ、へこたれることが多いですが数字になればまた話は別でしょう。ところが数字になったときにはもう借りる必要もないわけですので、借り入れすることも無く済むでしょう。大きい工場もなければ大きい機械も不必要なので、設備投資も知れてます。人件費だって抑えてて済むならその方がいい。

  ITバブルの頃のように、理解できない物に対して理解できないまま投資して消えるよりはずっとマシかもしれません。あのとき投資されて出てきたサービスで、今も残っている国内のサービスを私は知りません。

  身体一つが資本なのは、一抹の不安はありますが、やるだけやって生き恥さらしながらも突き進むのは、筆舌に尽くしがたいものがあります。簡単な言葉ですが、とてもとても、楽しいです。
【2010.03.06 Saturday 21:27】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
2009年の終わり
a72001.jpg
年末年始に限らず、どうもいまいち昔っから年中行事ってぼんやり見てる感覚が強いんで、実感がどうのとかいうより、ほうほうなるほど、と見てるだけといっ
た具合です。楽しいか楽しくないかと聞かれると答えにくいですが、正論を言えば楽しい楽しくないじゃなくて、儀式だろ、ということになるので、鼻白むこと
間違いなし。

ま、ぶっちゃけさ、楽しければなんでもいいわけで、酒が呑める酒が呑める酒が呑めるぞーっていうわけでしょ。非日常を楽しむってやつね。これって日常が安定して送ることができている人が楽しむことができる特権だと思います。私は結局この年末年始は集中的にコーディングしていて、クリスマスはおろか年末年始気分もなにもありません。山ごもりに近いくらい、日付も時間も感覚が曖昧。なによりテレビが無いので、なんの感慨もないしまつ。淡々と数字だけが時を刻む部屋で黙々と集中して制作に没頭です。味気ないことは全然なくて、非常に充実しています。

ずっと沼の中で足掻いていましたが、足の先が何か足場みたいなものに少しかすったぞ?といった時期です。その足場に体重を乗せたら沈むかもしれません。足場のようなものだと勘違いしているだけかもしれません。

そんなこと知ったことではありません。
結果が見えていることなら、私は手を出しません。
保険があるなら辞めます。

何もない。
常に何もない。

確固たるものは自分が信じる道だけで、それ以外は何もない。
その道だってあるのかないのかわからない獣道です。

だからといって、私はそっちへ行きたいのだから無理矢理にでも進んで行くだけです。

さようなら2009年。
00年代が終わります。
ようやく終わります。

みなさん良いお年を。
【2009.12.31 Thursday 17:42】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
2009年が終わる
a67.jpg
なんだか実感が全然湧きません。
時間は着実に移ろっていきます。

ブログも書き散らしたなりに、丸4年経過しています。最低でも月に1回は更新してるのは、我ながらギリギリだなとは思います。そして、大阪へ引っ越ししてから満10年が経ちました。仕事を始めてからは、あと数日で満15年です。

たった15年。

15年前に「できればいいのに」って思っていた環境が目の前にあります。そしてその上で次のステップへ行くことができます。つくづく、凄い時代になったものだ。

道筋をつけるのは簡単ですが、細かい実務は苦手です。
その辺は得意な人に任せるとして、道筋つけて大ざっぱにでもどんどん前に進んで行きます。

こんなに混沌としてて面白い時代って、たぶん終戦直後以来なんじゃないかな。
【2009.12.29 Tuesday 20:05】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
これは他にもあてはまる
a08001.jpg
某サイトで携帯電話とiPhoneと、その機能と違いについて書かれている記事を読みました。

曰く
「iPhoneについている機能は既に日本の携帯電話に搭載されている」
「その違いは、アプローチにある」
といったようなものでした。

携帯電話に限らず、他の「人が直接使う物」全てに「アプローチ」が当てはまるように思います。

携帯電話には今や機能が盛りだくさんですが、その機能のうち使っている部分ってほんの一部だと思います。ボクの場合だったら、通話、メール、web、カメラ、ゲーム、アドレス帳、GPSといったところでPCサイトビューアは使っていませんし、ゲームも待ち受けにできるもの限定で継続性はありません。GPSにしても、他にないから、という消極的選択によってです。だから、不便でも仕方なく使っているにすぎません。

同等の機能があって、使いやすく工夫がされていたら、そちらを使うのは道理です。

機能が優れているんじゃなくて、使い勝手が優れているものを選んでいます。
ハードに搭載できる機能をどういうアプローチで組み合わせて、使い方を提供するか、という考え方なんじゃないかなと感じます。

i-modeが登場して、携帯電話でメールができるようになったころ、誰が携帯でメールするかと思っていましたが、今は普通です。

当時、ボクやある一定の年代はPCでメールは普通でしたので、その価値観で携帯のメールを見ると、不便な代物でした。ところがそのころはまだ家にパソコンがない、あってもネットに繋がっていないというのが一般的で、そうした人たちにとって、馴染みのある携帯でメールというのには抵抗がなく、すんなり広がっていきました。だから「携帯でネット」という文化ができました。

ネットそのものも、情報共有・伝達といった本質は変わりませんが、その見せ方はまだまだ過渡的です。ホームページの形を顧みれば、どれだけ流動的に動いているかがわかります。そのため、端末に依存する、携帯でネットというのは、もっと過渡的です。パソコンはブラウザがネットの全ての端末化に向かっていっています。そして「ホームページ」という概念そのものも、あやふやになって来つつあります。新聞や本の様に、ずっと有り続ける媒体ではなくて、今後も変化を続けていく媒体です。もっと正確に言えば、媒体が変化するのではなく情報の見せ方のアプローチ、演出が変化するということです。携帯もパソコンもiPhoneも、単なる端末であって、どの端末を利用するかで、情報との接触のアプローチが変わる、すなわちサービスの成り立ち方、利用の仕方が様々に変わると感じられます。

なんていうと大げさな気もしますが、ネットもテレビも媒体として差違はあれど、受け取るのは人なので、コンテンツのアプローチの仕方に創造性とリソースをもっともっと費やして、如何に提供するかというのが大事なんじゃないかなと思います。

結局これって、体験を売るっていうことなんだと思います。

体験して初めてわかるものなので、機能とかデザインとかそういうところで比較しても本質からずれっぱなしになります。携帯でメールをするのが億劫になるくらい、iPhoneのインターフェイスは優れています。キーボードが無い端末には否定的でしたが、フリック入力を体験して今は全く逆です。携帯のキーボードを押すなんて面倒臭い。

こういうアプローチって、デザインなんですよね。
【2009.12.29 Tuesday 00:04】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
今年は残り60日を切りました
3450126154_f9dbf8edde.jpg
あれ、十月終わってた。

十月をすっ飛ばしてしまいました。十月なんか無かったという感覚の方が強くて、今が十一月とか何言ってるの?という気がしますが、そんなボクこそ何言ってるのこいつ、という目で見られますのでここは一つ黙っておきます。

最近、作品を外に出していませんが実は結構な量の曲ができています。ただまだこれは高められる余地があるものなので、ひたすら地味に磨いているところです。もの作りの目的って外に出すことではないので、いつになるのかはわかりませんが、いい加減ここら辺で区切りつけておかないと切りがなくて先に進めないなと感じたら、出すことにします。写真と音楽とあと内緒のことを自分のペースで粛々と作り続けています。外からいろいろ聞こえてきますが、物理的に目で見て手に取ることができない「成果物」を求める人は、それを求めてしまう気持ちは理解できますので仕方ないかなと思います。

達観ではないのですが、ネットワークを俯瞰してそれの形を考えたとき、人間の主体とは他者との関係性の中で初めて自己と他者の違いから主観を認識して確認する、という精神の成り立ちをわかりやすい形で提示してくれているように見えます。ネットワークにおいては発言を行わないものは存在しないものです。即ちそこでは主体も主観も存在し得ません。ネットワークを人間社会に置き換えれば素直に飲み込めます。これは一面的ですが、人間もやはりマクロの視点からみれば一面的にそうした精神活動をもつ生命体のネットワークと言えるでしょう。それが集団になり社会を持ち秩序のため法律を持ち国家を形成して現在に至っているわけです。これ一つの構造体と看做すのは、前にも書きました。

構造体の秩序を得るために、現在は法律ですがその法律の背景に神を作ったのもまた人間です。つまり神が作った法律によって成り立つ秩序を持った構造体故に、構造体から外れるものは神の怒りを買うわけです。一神教の考え方ですがアミニズムが浸透している日本でもやはり同様の発想はあり、それが単にムラ単位で細かく別れていただけのことです。これらを平定していった結果、多種多様な神々とアマテラスの不思議な関係が生まれたと言えます。

日本には明確な教義をもった宗教はありません。キリスト教は論外としてせいぜい仏教ですが、仏教は一神教ではありません。また神秘体験を言語化するあまりに解釈の余地が増え、結果的に多様化して難解を通り過ぎて詭弁だらけと言っても良い部分もあります。つまり、言語化により機微が剥がれ落ちて論理に無理が生じているわけです。だから最終的にはただ座れ、瞑想しろという方向へ行きます。神秘体験で得たことはそれでしか得られませんし、また主観によってぶれ幅も大きいため一元化しようとするのは難しいのです。

結局、宗教へ拠り所を求めるのは、何を求めていいのかわからないゆえ道標として縋ることが多いのです。身近なところでは占いがいい例でしょう。自分に自信がないとき、不安なとき、人は多く占いに頼ります。これは考えることを放棄しています。確率論であれ統計学であれ、占いは自分で考えずに自分以外のものへ答えを求めています。その姿勢はつまり自分への自信の無さが端的に現れています。

私は神は求めません。神を信じません。
ただひたすらに己を信じ、己を追究します。

人智を超越した存在やあるいはそれに類する何かはあることでしょう。ただ、それを認識して証明するには、人類は余りにも矮小すぎます。人類を知り宇宙を求め己に問うて居ると、現の世の汲々とした時間という概念の中ではとてつもない難題に思えますし、どうってことない問題とも感じます。

人類の世界を見ると、神だ仏だいいながらも多くの教義は資本主義であり、その崇拝対象は金という一神教であると断じることさえできます。何か金になるサービスを作る、何か小銭を稼げる商売を探す。食うために生活するために金はいるから、金があれば解決できることは多いから。金があれば金があれば。

言うまでもなく、人生は一度きりです。
輪廻天生を持ち出したところで、この人生は一度きりです。
どれだけ自分に正直に生きてこられているのか。
どれだけ周りの環境を言い訳に生きてきているのか。
どれだけ社会に必要とされることに喜びを見いだして生きているのか。
どれだけ責任や期待があるからということを理由に生きているのか。

自分のための自分の人生です。
自分の情熱は自分の創作にのみ向いています。
自分の時間は貴重なリソースです。そのリソースは自分の情熱に傾けるものです。

ただし、社会的常識から逸脱するため、構造体からみると完全なバグですので、いずれ私は社会から排斥される定めなのかもしれません。
【2009.11.05 Thursday 13:08】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
現代における芸術
21.jpg
アーティストという言葉が和製英語として定着した今日では、芸術家とアーティストは区別されるべきである。商業的に定量的な価格を付けられて大衆へ浸透する表現は芸術ではなくアートである。言葉遊びのように受け取られるかもしれないが、これは事実だ。アートは大衆を意識した商品、芸術は己を追求している行為、と分けられる。

例えば音楽。
多くの音楽はターゲットを意識し、そのために音楽を作る。意識的であろうと無かろうと、マーケットができあがりそこへ供給している時点で、それは表現結果ではなく、一定の価値基準を既に持っている商品になってしまう。では表現者本人がこれを認識していなければいいのかというと、そうではない。認識せずして自分の表現を芸術だと思ってしまっていたら、芸術そのものの意味がぶれてしまいアートと芸術を混同したままになる。アートはアートであり、芸術は芸術であるということを認識した上で表現活動を行わないと、認識レベルが下がったままになる。

例えば写真。
シャッターが押せれば誰でも撮影できるし、修正や補正その他加工は道具を使えればいくらでもできる。注文を受けて撮影する場合は、こうしたスキルは重要だしそのために利便性を追求するのは正しい。しかしこれはアートですらなく、素材である。素材は作品になる前の段階に過ぎず、それを作品と呼ぶのは違う。アートとしてならばまだ何らかの需要があればいい。写真を芸術にまで高めようと考えたら、ひたすら己の欲望を剥き出しにして他人の視点など考えず、ただ自分が欲しい絵を獲り続けるのだ。例えそれが他人の迷惑になろうが権利を侵そうが、それ以上に自分の満足を追求するのだ。だから撮っても撮っても満足などするわけがない。何故なら撮影してもそれは一瞬を定着しただけであって、刹那の満足しか得られないからである。つまり自分が満足できる写真など一生涯かけても撮り得ないのが写真なのだ。

例えば詩。
日本人なら日本語を扱えるから誰でも書ける。読めるし書ける。しかし読む行為と書く行為は天と地の差がある。言葉の印象や意味は辞書にあるように画一的な側面だけではなく、その言葉を受け取った人が育ってきた文化の中に育まれている。書く側はその文化を根幹に持ち、言葉と言葉を連綿と繋ぎ合わせて自分の中の世界を見つめるために書く。読む側はそれを受け取り、その人の中で言葉がスイッチのようにあちこちの引き出しを開けていくのだ。書き手と読み手の間には絶対に越えることのできない文化的溝がある。書き手はそれを意識することはないが、読み手はそれに気付き、言葉の繋がりを理解不能になったり拒絶したりするがそれは正しい反応と言える。しかしそうした無意識的な拒絶を受け入れて、刺激されるがままになったとき、詩からイメージを喚起され自己の中に新たな感覚を発見することができる。それが詩だ。

例えば絵画。
概して写術的な絵はわかりやすく大衆受けがよく、商品として定量的な価値基準を与えられる。風景画など好例だろう。写術的な絵はその時点で完結しているので、もはや無理矢理ひねり出す以外に想像の余地はない。それならばそこら辺の景色が奇麗なところで撮った写真で良い。大衆がわかりやすいものを好むのは絵画で最も顕著に現れている。しかし抽象的な傾向が見えてくると、わかりにくいので難しいなどという意見も聞こえてくる。難しいのではなく、単純に拒絶しているだけに過ぎない。何故なら人は自分の中にある「既知のもの」に安心はするがその既知のものの枠組みに収まらない対象は警戒するからだ。頭で理解しようとするのではなく、感覚的に受け取ればそこから自ずと何らかの形が立ち上ってくるのが抽象絵画である。写術的かつ抽象的であるといえるのはシュルレアリスムがそれだろう。キリコやマグリットの絵を見ればわかる。ダリはポップアートに近寄っていき、定量的価値基準の中で作品作りをしているので芸術ではない。商品である。

さて、現代の芸術。
デジタル技術がどうこうという向きもあるが、これらは道具の一つである。だからデジタルで作られたからどう、という議論は無意味だ。表現者としては己が表現するのが目的であって、その手段は厭わない。打ち込みだから、加工されているから、デジカメだから、そんな些末なことをどうこういう言う時間は無駄だ。素早く自分の表現を欲求を達成でき、自分が満足のいくものが得られるなら何でもいい。パソコンにより道具が飛躍的に増えたのは表現者として歓迎すべきである。しかし、芸術とアートが混同されている実情は歓迎すべきではなく、もっと多くの人々がそれを認識すべきであろう。

アートは商品になるのが前提であり、芸術は自己満足が常に前提である。なぜならば、ただひたすら自己と向き合い追求し、その世界観を外界に晒すのが芸術であり、そこにあるのは自己陶酔だけでしかない。それを商品とされてしまうと、世界観に「価格」という定量的な価値基準を付けられることになり、こうした定量化は結果として意識しようがしまいが、自己満足に支障を来し、やがて外界に晒す世界観を価値基準で濾過してしまうことになる。そうなった結果は、世の中に蔓延していると言えるだろう。

売れない芸術家と嘆く画家や音楽家は多く居るが、売れたらそれはその人が商品になり、その時点で芸術家ではなくなってしまうのだ。売れないといけないという社会的風潮があるのは否めない。何しろ大衆化されていない芸術家というのは「自称芸術家」に過ぎないからだ。しかしこれは大衆の意見に過ぎない。多くの意見が正義ではなく、自分の信じる道が正義なのだ。

しかし、世間と自分の距離を制御しながら制作活動をするというのは風当たりが強いものであり、これは今も昔も変わらない。だがネットワークの発達で人々のコミュニケーションの形が大きく変わっていっている。芸術家として、こんなに刺激に溢れかえっている時代に居られる喜びを感じない訳が無い。

文化的衰退が言われているが果たしてそうなのだろうか。
アーティストと芸術家を混同化している時点で、衰退していると言えるがそれはあくまで一部ではないのだろうか。大衆はもはや一つのメディアに頼っているわけではない。一律であった情報伝達手段に多様性が生まれているのだ。

人間の生き様そのものが、常に芸術的であり、その歴史が文化的だと思えてならない。
【2009.09.02 Wednesday 11:43】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
選挙権は国民権利です。義務じゃありません。
a06001.jpg
民主圧勝とか自民がどうのとか、まぁ相変わらず党派での争いってのは国民置いてけぼりがそのまんま形になってるように見えます。ちなみに、私は各党がどうのこうの言ってることに何一つ目を通していません。すみませんね。だってどうせ耳障りの良い言葉が連なっているだけの「広告」なんですから、そんなもん見たってどうってもんじゃありません。今回の選挙で次の総理が決まることになりますが、総理が麻生さんから変わったところ「あそう」でおしまいです。昭和天皇の口癖です。

「あそう」

こうなった原因を何かに求めるのは、求められた方がちょっと酷かなと思いますけど少なくともテレビ新聞雑誌ラジオの四マスには明確な責任はあります。民間株式会社として利益を追求するのは当然ではあります。しかしメディアとしての誇りを持った場合の利益を完全に間違えている。猛省すべきなのですが、これの言っている意味が分からないのかもしれないなと感じてしまうのが今の四マスの実態です。ネットはマスコミに入れるにはまだまだ信頼性が脆弱なので、そのようには捉えません。

「あそう」

ってね。

さて、今の日本に至るまでの戦後からの歴史をざっと振り返って見ます。今があるのは歴史となった過去があるからです。太平洋戦争を歴史というにはまだまだ生々しすぎて、抵抗はありますが、半世紀以上経っています。時間は流れています。戦後、ともかくは国の立て直しが必要でした。多くの人々も失った国では労働力が不足したことと、陣頭指揮を取ることができる人が不足しました。結果として、若い世代が牽引せざるを得なくなり、勢いがついたところへ、1950年の朝鮮戦争が勃発しました。この頃、日本は連合軍占領下にあって、戦争特需で工業系の生産が一挙に伸びて好景気に湧くことになります。1953年に朝鮮戦争が停戦になりますが、この特需が呼び水なり1955年から1973年までの高度成長期を日本は向かえることになります。

要因としてわかりやすいのは、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需景気。外的要因です。内的要因として、この時代を牽引していた世代の多くが今と比べて遥かに若かったことがあるのではと考えています。専門家ではないので仔細に検分したわけではありません。こういう言い方したらずるいですけどね。

そして現代。二十一世紀。
昔からの予測通りの少子高齢化社会になりました。少子高齢化だけならまだしも、定年後することがないからということで、矍鑠たる老人が仕事をしています。敢えて意地悪な言い方をしたら、戦中戦後を経験した人たちが上に居座っているのです。この方達は、現世でおよそ考えうる限りの修羅場を経験した猛者です。高度成長期以降に生まれ、ぬくぬくと育ってきた世代が敵う相手ではありません。この方々は日本の戦後を牽引してきた方々です。その後にやってきた高度成長期の狂乱を好景気としての印象が強く残っていることでしょう。次はバブル景気です。好景気の頃を覚えていて、今は管理職という世代に概ね当たると思います。やはり自らが若い頃の狂乱景気は印象が強く残っていることでしょう。いつまでたっても「今は不景気」というわけです。

さらに悪いことに世代間のコミュニケーションギャップが、ちょっと前よりもずっと大きくなって来ています。情報源がだいたい共有されている場合は共通言語を多く持っていますので、世代間でも会話のずれは少なかったものですが、現代では四等分くらいに分断されています。それらを横断している人も居ますが、これはマイノリティです。飛鳥時代の木簡から「最近の若者は」といった意味合いの文言が見つかったなどといいますが、いつの時代も「最近の若者はなっとらん」という説教になるはずが、今は「最近の若者は意味がわからん」という始末です。

さてそれで政治のお話。
「最近の若者は意味が分からん」と思いながら選挙活動しているから、やたら過激やたら派手みたいになんだか場当たり的な選挙活動になっているように見えます。何がしたいのかわからないというのが率直なところです。そういう率直な意見で言ってしまえば「とりあえず政権獲りたい」というところしか見えてこないのは、これ民主党。「あいつら頼るならおれらにしとけよ」って言ってるのが自民党。それ以外の党は「とりあえず議席くれ」。

「あそう」

国民は、今までのように受動的に情報を摂取するだけの人々ではなくっていっています。過渡期ですが、能動的に情報を摂取してそれを自分の周囲にバラまくコロニー的な情報空間ができつつあります。クラスターと表現しても良いかもしれません。今も外を「民主党の若い候補者〜〜〜〜をよろしくお願いいたします」なんて言いながらこんな時間に通っていきましたが(午後7時半)、全然意味がわからないのです。そんな風に思っているのは私だけなのかと危惧してしまいます。

でも胸を張って言えるのは、私は愛国心があります。日本という歴史と文化を育んできたこのクニは大好きです。しかし日本の国家は愛せません。こうした愛国心は強制される物ではなく、自発的に発生する感情です。そういった訴求力がない国家なんだというのを、国民が認識を持って、自分で考えて誰かに頼まれたからとか付き合いでとかじゃなくて、国政に関心を持てばいいことになるんじゃないかなと思っています。日本の国は好きだけど政治家は嫌いって、わりと聞く言葉ですけど、それって端的にいえば私の言う愛国心と意義は同じなんだろうなと感じます。
【2009.08.28 Friday 19:35】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
メディアと広告について
Untitled-1.jpg
携帯でみると、クソみたいに下品な広告で溢れてる。

アメバも、モバゲもミクシもその他も、だいたいそっち系のバナー広告ね。それから、ダイエットとか美容とか、そういう方面。女性が男性向けのバナーを見て、気分が良いわけがないし、その逆も然り。結果としてバナーの部分は脳内でキャンセルされて、見ていても意識から外すようになるので、そんな広告意味が無い。

テレビやラジオや雑誌なんかの広告は、それ自体が面白いものも多いので好んで見たりもするけど、今のネット向け広告って携帯に限らずその他PCでのリッチな広告も見る気がない。くだらないから。そんなくだらない広告を見て買おうかな、なんて思ってしまうと、そういう自分がさらにくだらなく見えるから、絶対に買わないし、こういう広告をアリにしている企業を疑問視すらしてしまう。

まぁ、こういうブログ記事そもののがクソみたいなノイズだと言われればそれまでなんだけど、情報ってのは玉石混淆が基本で、受け手によってその価値が変わるものでもある。ネットを飛び交う情報は明確なブランドは無いし、価値基準が無い。従って受け取った側の基準によって情報の価値が変わるものだ。だから二元的な判断しかできない場合は、情報が薄っぺらいものになる。多角的に情報を収集して分析することで、情報に厚みを持たせられるのは、逆に考えれば玉石混淆故とも捉えることができる。

そういう情報空間だからこそ、広告の価値基準も未だ確定的なものはなく、数で勝負という原始的な方向でしか動いていない。マッチング広告といってもただ表示するだけだ。そんなものに何の意味がある。買う気で探しているところへマッチングならば、広告の意味も多少はあろうが、そうしてクソみたいな広告を見せられたところで、そこで買おうとは思わない。

ネット上の広告は、総じて鋭さがない。

ビジュアル的に素晴らしいものはあれど、広告したい内容を本質的に突いた舌を巻くような表現もなければ新しいニーズを開拓するようなものもない。どちらかと言えば、田圃の中の立て看板や、テレビショッピング、ただの垂れ流し、そうしたものばかりで、数さえ稼いでそのうちの数%でも購入に至り売り上げになればいいというものだ。それは資本主義、消費社会としては正しいが、文化的とは言えない。

広告はメディアの品性とも言えると思う。
テレビ、ラジオ、雑誌、新聞といった四マスは、時間をかけて広告と媒体における、お金の循環関係を築いてきた。

ネットは日本語が扱えれば誰でも参加できる大衆型メディアだ。だから一気に大衆化した。そのため黎明期を過ぎた今日、混沌期と言えるような状態でもある。

GoogleAdWordsの毒にもクスリにもならない広告、成人マンガのくだらない下品な広告、美容品ダイエットなどの定番広告、そんなものを見せられて、それでいいのか?

ネットがメディアの様に言われているが、未だメディアに成りきれていない。電波が放送局を通じない限り、ただの電波であるように、ネットはただのネットだ。放送局の様にコンテンツをまとめ、品質を維持し、ブランド化がされない限り、メディアに成ることはない。かといって電波の様に、認可制にする必要はない。ブランド化を行い、それと広告と結びつけてお金の循環を作れば、自ずとメディアと認識される様になる。成り立ち方は、有線に近い。やったもん勝ちである。

幸か不幸か、強力なコンテンツホルダであるテレビ局は地デジを前にして未曾有の大不況のため、身動きが取れない状態でもある。テレビ局各局が連携して本格的に既存ブランドをネットに対応させて乗り出してきたら、後発は太刀打ちが難しくなる。NHKですら、模索している状態で思い切ったことはできない。

ホームページをメディアだと思ったら大間違いだ。ユーザインターフェイスの一部でしかない。いくつもあるユーザインターフェイスと端末を選択するのはユーザだ。そうした多様性に対応させ、コンテンツの品質を維持して提供し続けるのがコンテンツホルダであり、広告でさえもコンテンツホルダの品質にあったコンテンツでなければならないのだ。
【2009.08.05 Wednesday 18:57】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
体調不良
Untitled-2.jpg
ここしばらくどうもあまり調子がよろしくない。
ほっときゃ治るだろう。
【2009.07.30 Thursday 15:56】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
リソース不足
181.jpg
人一人が使用できるリソースの上限は決まっているというのにも関わらず、そのリソースをギリギリまで使用してしまっていて、にっちもさっちも行かない今日この頃。

インプットに対して、アウトプットが追いついていません。
ならばインプットを調整すればいいのですが、呼吸や鼓動みたいに自律的なものなので、現在のインプットがいわばゼロなので調整しようがありません。

どうせ泡沫のことならば、全て邯鄲の夢であればいいのに、とも思います。

従順なのはいいけれど、隷属とは絶対に違う。
【2009.06.26 Friday 16:01】 author : 喜老人
| mob | comments(0) | - |
--> Apple Store(Japan)